顕微新書 

書きたいことなんてないけど習慣だから毎日書いてます

自分本位

 

f:id:itaidesuga:20190422234359j:plain

本日の自分へ。

 最近、ちょっと余裕がないな、と思った時。それはもしかしたら、自分のことばかりを考えているからかもしれない。

 

 自分本位で、自分の身の周りを自分の思い通りにしようとしても、大抵はうまくいかない。それは、いわゆるジコチューとは違っていることが多い。むしろジコチューで協調性がない人間が、他人に迷惑をかけすぎない範囲で、上手に生きているケースもある。本人にはその気はないし、周囲の人間も「彼はそういう人間だから」と、半分諦めているけれど、どこか憎めないから関係を続ける。ようは「他人の目を気にしない人」のことだ。羨ましい限りであるけれど、日本人の多くの人はやはり他人の目を気にしながら生きている。僕もそうだ。これはもう、ある程度しょうがないことなのかもしれない。

 

 そんな「他人の目を気にする人」は、他人を意識するあまり、他人を忖度して、心にもないことを言ってしまったり、嘘をついてしまったりする。仕事で間違えを起こしたりして馬鹿にされないか、怒られたりしないか心配で会社に行くのもおっくうになる。そんなことは割と誰でも経験する。

 

 しかしそれは、他人のことを考えているようで、自分のことを考えていることに他ならない。「あの人に嫌われるのはイヤだ」「この人に見放されたら立場が危うい」「馬鹿にされたくない、笑われたくない」という願望、「こうありたい」「他人からこう見られていたい」と欲求する態度は、他人からみたらむしろ「自分のことしか考えていない奴」に見られがちで、良い印象ではない。

 

 他人の印象操作なんてなかなか上手くいきっこないし、上手くいくとしてもかなり苦労するはずである。だったら、周囲の何割かに嫌われながら、それでも気にせず生きるほうが、楽だったりする。

「アニメタイアップ」の旨み

f:id:itaidesuga:20190421192648j:plain

写真と記事の内容は無関係。

 「名探偵コナン」が大変な人気があるようで、新作映画「紺青の拳」は公開第一周の興行収入で、昨年の「ゼロの執行人」を超える盛り上がりだそうだ。かくいう僕も(嫁の誘いとはいえそれなりの期待に胸を躍らせながら)「紺青の拳」公開初日に映画館開場の列に並んでいた。また、コンビニの「セガラッキーくじ一番くじみたいなやつ)」は、上位賞は既にほぼ当選済み。コンビニ店員も「コナン人気って、そんなに凄いの?」と、やや困惑気味の様子。

 

 そんなコナンフィーバーに、上手くあやかっているのが「くら寿司」ではないだろうか。

 

 くら寿司には、寿司皿五枚ごとに景品(カプセルトイ)が当たるゲームに挑戦することができる「ビッくらポン!」というアトラクションがある。通常の景品はお寿司のキーホルダーなのだが、キャンペーン期間中の景品はアニメグッズ等に入れ替わる。

 この「ビッくらポン!」でゲットできるコナン景品は計一三種類。景品がゲットできる確率は、経験上の感覚値では1/5。つまり、全種類をゲットするには、最低でも六五皿をたいらげなければいけない。

 

 コンプリートするには、経済面はもちろんのこと胃にも大きな負担がかかる。一人で六五皿は無理。数回にわけて足を運ぶか、友人(それも恐らくコナンファンの同志以外の)を連れていくしか道はないように思える。

 

 しかし荒業もある。それは、「一貫二百円(皿二枚)&シャリプリ(シャリが半分)」のネタを注文し、腹のスペースと皿の枚数を稼ぐ、という方法。ちょっと損した気分にもなるかもしれない。

 

 ただし、オタクは金を惜しまない。企業にとってアニメタイアップは、恐らく寿司より美味しい。

【ネタバレ有】バード・ボックスについて(つづき)

f:id:itaidesuga:20190420182014j:plain

バードです・・・。

 ネットフリックスオリジナル映画「バード・ボックス」を、エンタメ的に観ればおもしろくない、という生意気な感想を述べた。ただ、それだけに終始するのも大人げない。あえて、あるいは無理矢理、おもしろさを見つけてみようと思う。なお、本作の「テーマ」の考察については、ググれば溢れるほど出てくるのでそちらをどうぞ。

 

 本作の軸である、最後の最後まで正体不明の「何か」の役割とは、いわゆる「終末モノ」に該当するであろう本映画に類似する、例えばゾンビモノで言うところの「感染源」「ウイルス」に近い。「何か」を見た者はウイルスに支配されるかのように自害を始める。一方では、実は自害しない者もいて、その対象となるのが「狂った人間」であり、自害どころか「何か」を見ることを他者に勧めてくる。まるで「何か」に従属し仕えて、上手く死から逃れるような「合理性」を感じさせる。「何か」は人間に直接手を下すわけではなく、人間を「自害する者」「受け入れる者」に選別するだけである(そこが「エンタメ的におもしろくない」ポイントでもある)。多くの批評ブログでは、「バード・ボックス」つまり「何か」が人間を建物という「鳥籠(とりかご)」に追いやる、と考察しているが、鳥籠の外で飄々と生きている人間もいる。

 

 まるで「理性か本能か」「人間的か動物的か」を際立たせるようなこの設定は、単にストーリーの加速装置なのか、何らかのメッセージが込められているのか、はたまた他の理由があるのか、そもそも理由などないのか、それはわからない。

 

 ただ、あえてこじつけで、無理矢理メッセージを読みとるとするならば、割と便利で合理的な現代社会においてこそ、理性は失われがちでヤバいよねという危険視、つまり、この映画を楽しめない奴はヤバい・・・ということなのかもしれない。

【ネタバレ有】バード・ボックスについて

f:id:itaidesuga:20190419235928j:plain

バードです。

 今週の木曜日、風邪をひいて暇だったので、いくつか映画を観た(寝ろっつーの)。その中のひとつ、ネットフリックスオリジナルの映画「バード・ボックス」の話をしようと思う。

 

 時間があったら観よう観ようと思いつつ、時間がなかったので観ていなかった当映画、図らずも時間が出来てしまったので視聴したが、はっきり言っておもしろくなかった。

 

 映画の概要はこうだ。

 

 世界各地で、人々が一斉に自害し始める。原因は不明。ただ一つ言えることは、自害を始める人間は皆「何か」を見た。その正体不明の「何か」から隠れ、「何か」を見ないように外では目隠しをしながら、人々は生活するようになる。主人公マロリーは、子供二人を救うため、川の下流にある安息の地を求めて、目隠しをしたままの川下りという無理ゲーに挑むが・・・。

 

 さて、ここからがネタバレとなる。先述した「何か」を見ないようにするために、ある時は目隠しで川を下り、またある時は物資調達のために使用する車の窓ガラスにペンキのようなものを塗りたくって四方八方が見えない状態で街を運転するのだが、その世界感を保持するためなのか、「何か」の姿は、劇中には一切登場しない。また、「何か」の姿に言及する台詞もない(強いて言えば「美しい」ぐらい)。つまり、「何か」はまったくの正体不明。そこが個人的に「おもしろくないな」と感じた部分だった。例えば、映画「ミスト」のように、最初は正体不明だが、そのうち怪物が姿を現し、最終的には怪物の正体や発生原因にまで言及する・・・そんな期待を裏切られた。ただそれは、エンタメ的レイヤーでこの映画を視聴したからであって、もっとメタ的なレイヤーで観れば、おもしろさがわかるかもしれない。(多分つづく)

 

運動のち風邪

f:id:itaidesuga:20190419231734j:plain

ある愚か者の話。

 ハードな運動をした翌日、いきなり風邪をひいてしまった。どうやら先日、ジムで風邪菌をもらったついでに、一時的に躰まで弱めてしまったらしい。情けない話である。

 

 熱もあったため、木曜日は仕事の一切を行わなかったが、もの凄く具合が悪いというわけでもなかったので、スマホで映画等を観ながら横になっていた。むろん、眠ることもできたのだが、風邪等で具合の良くない場合は決まって悪夢(近頃自分の身におこった出来事に関連した悪夢)を観るので、あえて眠らないよう心掛けていた。まぁ、結局ホラー映画を観ながら寝落ちしてしまい、その映画の続きを悪夢で観る(というかもはや体験する)ハメになるのだが・・・。心底「夢でよかった」と思ったのは久しぶりであった。

 

 体調不良で身体が弱っている時というのは、気持ちも弱りがちである。急ぎの仕事は無いし、身体を休めたほうが賢明だとわかっていても、やはり仕事をしていないことへの罪悪感というのはなんとなくある。そのうえ、日中仕事で家を離れている嫁に、帰ってきてから家事をさせるのも申し訳ない。そのプレッシャーで、夕飯の用意だけはした。それが偉いとかではなく、むしろちゃんと休めない僕は愚かである、という話。

 

 これを書いているのは風邪をひいた翌日金曜日の夜であるが、もう熱はなく、名残り咳と少々の鼻水は継続している。明日の朝には全快していると思う。予定していた嫁とのいちご狩りはなんとかなりそう。とかいって、明日になってみたら嫁が風邪をひいていたりして。

 

 
 風邪をひいているときというのは、なぜだかお酒が飲みたくなる。弱っているストレスからなのだろうか。それとも、身体をアルコール消毒せよ、ということなのか。・・・まぁ、飲まないけど。

運動

f:id:itaidesuga:20190417233225j:plain

運動して疲れているので、今日はただの日記。

 今日は久しぶりにジムへ行った。といっても、県営のプール施設に設置されている小さなジムだ。初めて行ったのだが、案外キレイで人も少なく、その上ジョイフィットよりも安い。無論、そういったチェーン的な有名ジムよりも設備の面で劣りはするが、少し運動したい僕にとっては最低限でいい。

 

 主にランニングマシンやサイクリングマシン、筋トレを行ったのだが、常に暇で、とくにランニングではスマホを操作することができないので、ポータブルミュージックプレイヤ(ウォークマンとか)が必須になりそう。サイクリングマシンは手が空くから、次からはネットフリックスで動画を観ながらサイクリングの予定。今から楽しみ。

 

 筋トレのマシンが揃っているのがありがたい。家でダンベルを使うにしても鍛えたい部位によってウエイトを変えなきゃいけないしそもそもダンベル持つのが既に面倒だし、腹筋をするにも横になるのが面倒でそのまま寝てしまうことが多いから、筋トレのためのマシンを見ると、おぉ、なんかいいね、楽しそう、てか、めんどくさくなさそう、という気持ちが湧いてくる。まぁ、いざやり始めたら、もの凄く面倒なのだけれど。それでも、毎日文章を書くのと筋トレするの、どちらが面倒かと問われたら、書くまでもない。

 

 ジムで運動したのは夕方。家に帰ってからも、なんだかやる気に満ち溢れている気がするのは、久しぶりに汗をかいた爽快感からだろう。多分続かないだろうな、とは思いながら、それでも週三回はいこうかな、と計画している次第。

 

 痩せてたり筋肉あったりのほうが人生何かと得なので、また鏡を見るたびにガッカリしなくて済むので、やっぱり運動って大事。ストレス発散にもなるらしいけど、今のところ実感なし。

泥沼

f:id:itaidesuga:20190416235528j:plain

日本の歪み。

 サラリーマンの多くは時間がない。やりたくもない仕事をし、八時間から多いときは十二時間、あるいはそれ以上の時間を仕事(会社)に縛られる。家に帰ってからすることといえば、お風呂に入った後に晩酌をしながらのゲームもしくはyoutubeや撮りためたアニメの視聴。そしてまた明日に向けて遅めの就寝をとる。朝眠い目をこすりながら昨日と同じように行きたくもない会社に向かう。やりがいの見つからない仕事に、なんとかやりがいを探してはみるものの上手くはいかず、自分がなんらかの業績を上げたとしても社内での評価にとどまり、外側から見ればその業績は会社の業績として扱われ、「よくやった、これからもよろしくたのむよ」と、狭いコミュニティの中で少しずつ地位をあげていく。そうやって、何年何十年と変わり映えのない会社人生を過ごしていく。

 

 一方では、著名な実業家やフリーランスのブロガー、YouTuberなどが着実に力を付けて圧倒的知名度を誇り、幸せそうに生きている。サラリーマンもそれに憧れ、ブログを始めてみるが、飽くまで本業ありきであり、おろそかにはできない。ようは副業としてブログを始めてみたりするが、それでもやはり、やりたくもない本業に時間をとられるため、時間と体力ばかりが削られ、帰りの電車の中では家に帰ったらブログを書くぞと意気込むが戸をくぐればやはり酒に手が伸びる。アルコールも手伝って今日はもういいやとベッドに横になる。朝目覚めると、あぁやってしまった、毎日更新すると決めていたのにもうサボってしまった、自分は何をやってもダメな人間だと自己嫌悪し、さらにまた行きたくもない会社に向かうという負の相乗効果によってさらにやる気をなくす。

 

 泥沼だ、サラリーマンって。諦めて他の幸せを探すか、リスクを取って辞めるかしかない。

QUOカードpayの誕生

 

f:id:itaidesuga:20190415233233j:plain

テレカに次いでクオカードもなくなるのか。

 一瞬、見間違いかと思った。QUOカードpay(以下、便宜を図るためにクオカードペイ)の登場についてだ。クオカードとは、もはや説明不要のギフトカードだが、それが電子化されたサービスだ。もはやカードですらないが、ギフトという特性は受け継がれている。

 

 このクオカードペイは「電子版クオカード」と呼ぶことができ、アプリは必要なく、プレゼントしたい相手にURLを送付するだけでいい(アプリは存在する)。貰ったクオカードを使用するには送付されたURLを開き、バーコード画面を店頭で見せるだけ。従来の「モノのクオカード」と同様に、現金との併用で使い切りができるという点も、一応特徴としてあげることができる。

 

 「モノのクオカード」は、懸賞の賞品として広く用いられ、また卒業などのお祝いのシーンで、オリジナルデザインのクオカード作ることができる。その点で人気を博していた。実際、僕も色んなデザインのクオカードを集めていて、今も使わずに保存している。しかしこの矛盾、つまり「お金なのに使わないでおくことで保存される価値」が、今回のクオカードペイの登場と関係しているのかもしれない。

 

 というのも、クオカードペイにはアプリが存在し、アプリを使用することでクオカードの券面、つまり「モノのクオカード」と同じようなデザインを保存することができるという、一方では合理的(先述した矛盾の解消)であり、他方ではこれまた矛盾的(券面の存在意味は? ソシャゲ的ゲーム要素として捉えるならまだしも、本当に券面に価値があるのか?)ともとれる機能が備わっている。この価値を決めるは僕ではない。ただ流行るとすれば、少し憂いてしまう。モノの消失と、そこから伺える合理性を求める余裕のなさに。

動画の介護性について

 

f:id:itaidesuga:20190414164547j:plain

スクラップアンドビルド

 最近は動画コンテンツにかかりきりである。読書もなおざりにしている。動画がおもしろすぎるからというよりは、動画が楽すぎるからだろう。とても楽なコンテンツだ。ちょっとよろしくないな、と思っているところ。

 

 読書界隈でよく耳にする「読書=能動的行為」という考え方。まったくその通りで、読書とは「文字(デジタル)→イメージ(アナログ)への変換」と考えることができる。不自然から自然へ。その変換行為が「能動的」といわれる所以の一つだ。だから昔は、「漫画を読むとバカになるわよ」と母親は子どもを叱ったのかもしれない。無論、漫画を読んでもバカにはならない。活字のような能動性に欠ける、ということだ。

 

 漫画よりも危険視したほうがいいのが「動画」だろう。先述した「デジタル→アナログ」「不自然→自然」の変換とは、端的に言えば「頭を働かせること」である。漫画には絵があるから直観的であり、活字よりも補助的で内容が理解しやすい。では、動画はどうか。動画は、漫画の絵が動く、と解釈できる。それは、より直観的で、補助性を超えた「介護性」といえる。

 

 つまり、人間の目で見えているものはすべて動いているから動画と同義であり、よってスマホやパソコン、映画のスクリーンに映っているものは「自分の目でみているそれそのもの」に近い。活字・漫画よりも、動画が一番「楽なコンテンツ」ということだ。

 

 想像してほしい。自分の目で何かを見るために思考は必要ないはずだ。考えなくても、目には何かしらが映っている。つまり、「不自然→自然」ではなくダイレクトに「自然」であり、思考がいらない=頭(脳)を働かせないということ。だから、動画の観過ぎはよろしくない、という結論だ。

死に方について

 

f:id:itaidesuga:20190413194347j:plain

何度も死にかけるようだったら自殺かなぁ、という話。

 死について語ろうなどというのはおこがましいことだ。これまでさんざん、いろんな人が死について考え、研究し、語り合ってきた。それでも死が何か、という明確な答えは出ていない。だから僕は、「死に方」について語ってみる。

 

 死ぬのが怖いか、と聞かれたら、「死ぬこと」それ自体は怖くないと答える。死んでしまえば、怖がる自分もいなくなる。人間が不老不死になれる未来がくるかもしれないけど、僕が生きている間にはたぶん実現しない。だから、いつかくる死を気にしていても仕方がない。

 

 それよりも、生きている人間にとって、よっぽど問題なのは「死に方」だ。多くの人は「死」ではなく「死に方」を気にしているはずだ。

 

 僕は、死を意識しないうちに死ねたらラッキーだと思う。痛みを感じる前に、脳天を撃ち抜かれるとかで、いつのまにか死ねたらいい。もちろん死にたいわけではなくて、死に方はそうでありたい、ということ。つまり、苦しみたくない。飢餓だったり、病気になったりして、死を意識したまま死にたくない。苦しいのは嫌だ。

 

 重い病気にかかったことのある人が口をそろえて語るのは「異常なほどにリアルな死の感覚」だそうだ。健康な人は、死を忘れがちだ。人は必ず死ぬ、という事実を都合よく忘れる。不安を消すためだ。でも病人は、その不安から逃れられない。これも「死」ではなく「死に方」だ。

 

 今僕は海外ドラマを観ている。当たり前のように、目の前で人が死んでいくドラマだ。文明は崩壊し、化物がうろつく世界を、人は必至に生きている。当たり前だった生活がどれほどユートピアだったか。それほどの絶望を生きている。避けられない死の感覚。この世界で生きる人間は、まるで病人だ。僕だったら、自殺を選ぶ。