顕微新書 

書きたいことなんてないけど習慣だから毎日書いてます

小さな幸せと自由

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読むとなぜか楽になる漫画。

 今日は漫画を読んだ。僕が一番大好きな漫画の最新刊だ。ジャンルはいわゆる日常系。

 

 この漫画の最新刊が発売される度に買い、それを読むと、かならず気分がリセットされ、楽になる。この漫画には焦りがない。決めつけもない。日常系だから壮大なテーマもない。だからこそ制限もない。後ろめたいはずなのに後ろめたくない。下ネタは多いけど下品じゃない。あるのは小さな幸せと自由だけ。しかし、秘めた力は大きい。

 

 どんなに小さな幸せでも、それなりに集めて磨いて、いろんな角度から眺めてみたら、その価値の大きさがわかる。大きな幸せを否定しているわけではない。ただ、大きなものに価値を見出すことは大変疲れることだ。自分の身体よりもはるかに大きい石を磨くには体力が要る。多視野で眺めるには自ら移動しなくてはいけない。時には重い石をひっくりかえさなければいけない。しかも、すぐには価値が見えてこない。時間がかかる。そもそもこの石に価値があるのか? 貴重な時間を無駄にしているのではないか? そんな不安と対峙しなければ、大きな幸せを掴むことはできない。これはとても大切なことだ。

 

 でも、並行して小さな幸せを感じてもいい。むしろ感じるべきである。人生を苦だけで満たすのは簡単だけれど、楽だけで満たすのは難しい。熱心な仏教徒でさえ無理だろう。だからこそ、小さな幸せをコマメに拾うべきだ。楽しさ、つまり「楽」を感じるべきだ。大きな石を磨くことが、人生のすべてではない。

 

 この漫画の著者のブログがある。彼のブログと漫画の内容は、本質は一緒だ。本音に忠実で、拘らず、理性がある。つまり彼の漫画は、彼そのものに限りなく近い。漫画に秘められた力の正体は、「小さな幸せと自由」という前提に違いない。

役割について

 

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なぜ会社は、多くの社員にまんべんなく同じような仕事をさせるのか。

 また昔話だ。十年くらい前は「自分ができないことを他人に頼むのは失礼」というのが世の中の常識だと思っていた。「手前ができねぇことをひとに頼むんじゃねぇ!」とよく大人に言われたものである。自分でできないから他人に頼むのでは? と思ったけど、大人が怖くて口にできなかった。

 

 そんな過去を、嫁や仕事仲間に伝えたら「そんなことを言われたことがない」というのである。僕だけなのだろうか。僕が生意気でいけ好かないガキだったから意地悪されただけなのか。ありうる。それにしたって、無茶苦茶な理論だと今でも思う。「手前でできねぇことをひとに頼むんじゃねぇ!」。できないから頼んでるのに・・・。

 

 世の中は「役割」で成立している。大人になったら何らかの役割を与えられる。その役割をまっとうすることで社会が回る。政治家がいなければ治安は保てない。農家がいなければ農作物が食べられない。医者がいなければ怪我も病気も治せない。教師がいなければ子供(あるいは国)の学力が上がらない。

 

 そして人間は、これら複数の職を兼業できない。それが人間のキャパシティだからだ。「僕が国を治めるから、君はおいしい野菜を作っておくれよ」「病気は僕が治すから、君は子供たちの教育に専念しておくれよ」。これが役割だ。

 

 最近、とある著名人が「日本は雇用流動性が悪い」と嘆いていた。人と仕事、または人と人の関係には「相性」がある。人間も仕事も多種多様で、向き不向きがある。しかし、日本は雇用流動性が悪いので相性のよい職に就きにくい。でも、それだけじゃない。会社は社員に「万能」を求める。農家に政治や手術をさせようとしている。「役割」を与えない。「自分ができないことを他人に頼むな」という考えに、なんとなく似ている。

続けられるもんですね

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Twitterに投稿している「顕微新書」の話です。


 気がつくともう百回目の投稿。つまり、百日間、毎日絶え間なく、六五〇字近い文章を書いている。誰も見ちゃいない、読んじゃいないのによくやっているほうだと、僕は思っている。他人から見れば「よくやっている」というよりも「よくもやるよ、こんなこと」であろう。同感である。正直だるい。辞めたって死にやしない。でも、やると決めたからやっている。

 

 さて、こうやって無駄とも思えることを続けられるのには幾つかの理由がある。ひとつは、既に述べた通り、やると決めたからだ。じゃあ他には? 

 

 まず、期待をしていない。期待というのは、他人に対して「こうして欲しい」「こうあって欲しい」「影響を受けてほしい」「褒めてほしい」という願望だ。この「顕微新書」を始めたころはそんな期待・願望も少なからずあったが、もう一切ない。でも、人間というのは、期待がなくても、そしてたとえ無駄なことであっても、ある程度は続けられるものなのだな、ということがわかった。それがわかっただけでも、めっけもんである。

 

 そして辞められない最大の理由は、辞めるのが怖いからだろう。そもそも三日坊主な自分が何でもいいからとにかく一年続けてみようと思って始めたのがこの顕微新書だ。辞めてしまったら、「続けられない人間」に逆戻り、という脅迫観念がある。自分で自分を脅している。

「ここで辞めたら、お前はもう一生何も続けられない人間だ、おい何とか言ってみろよ」。

 

 やめられない・とまらない、というフレーズがある。いくら嫌いな食べ物でも、背中に拳銃を突き付けられていたら、食べることをやめられないしとまることもできない。そんな感じ。

 

 
この百日間で、僅かながら掴んだものはある。残り二六五回。だましだまし書いていく所存。

 

【追記】

このブログの読者になって頂いた方が、いつのまにか2名いました。ありがとうございます。

電子化

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引きこもりができれば、衣食住の「住」が「衣」になるね。

 本をよく読む。活字も漫画もだ。そのすべてが紙媒体だ。電子書籍も試してみたいが、「紙本」に依存してしまう。紙だろうが電子だろうが内容は変わらないのに、なぜか実物(物質)に拘る。それは、「ここにある」と明確に言えるからだ。目に見えるそのものの「紙本」がある。そこに安心感を覚える。その前提として、僕は「紙本」が好きなのだ。読書ではなく、あくまで「紙本」。もちろん読書も好きだけれど、ただ読書が好きなら電子書籍でもいいのだ。

 

 同じ理論で、例えば音楽のCDや映画のDVDには興味がない。音楽を聴きたければiTunesがあるし、映画もレンタルビデオや動画配信サービスで事足りる。ゲームもダウンロード販売があって便利だ。ディスクどいう実物に拘りはないから、視聴するという目的が果たせればそれでいい。ディスクを眺めていたって、動画が再生されるわけじゃない。

 

 恋愛はどうか。二次元の嫁という概念が出来て久しい。人間は、画面の向こう側、架空で二次元で、人間の意識が創ったキャラクターに恋をすることができる。そうやって少子化が進むのかもしれないけれど、個人が幸せなら、それは素晴らしいことだ。皮肉も他意もない。

 

 さらに、いまはVRの発展が目覚ましい。VRを通して、二次元キャラクターと触れ合うことができる。また、VR上での「人間同士」のコミュニケーションも当たり前になりつつある。いずれは誰もが自分そっくりのアバターを操ることができるようになる。どこでも、誰とでも会える。

 

 人間が「いらない」と判断したものは、どんどん消えていくのだろうな、と感じている。本やディスクは、今後「記念グッズ」として作られるだろう。

割となんとかなる

 

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致命的に困ったこともなく、今まで生きてます。


 僕は馬鹿だ。思考は鈍く浅い。頭の回転も遅い。すぐブレる。他人の考えに流されやすい。強い意思なんて持ちあわせていない。もの忘れもひどい。家を出るときにゴミを捨てようとして忘れる。帰宅してからようやく思い出す。一度や二度じゃない。先週の今ごろ、なにをしていたかも覚えていない。一昨日食べた夕飯は? その前日に観たアニメは? そもそも本当にアニメを観ていた? 記憶が曖昧である。病気ではない。健全だ。

 

 多分、他人より頭(脳)の機能が著しく低い。だからと言ってその代わりに運動神経がいいわけでもない。人並である。バスケットボールのドリブルはできるし、サッカーのリフティングもそこそこだ。でも、それだけだ。むしろ脳と身体は一体である。人間の身体の構造なんてだいたい同じだから、ある程度の運動レベルは気の持ちようで上げられる。練習すればドリブルもリフティングも誰だってできるようになる。

 

 仕事も苦手だ。効率が悪い。同僚の三倍は遅い。腰も重い。ミスも多い。先週こなした仕事の内容もなかなか思い出せない。

 

 ここまで読んだあなたは「こいつはメンヘラだ」と思ったかもしれない。でも僕が言いたいのは逆である。こんな人間でも、けっこう幸せに生きている。記憶力が弱いから同じ本を何度でも楽しめる。読んだら内容を思い出すし、前回と違う視点で観ることも出来る。得られるものも多い。また、亀みたいに「のろま」な脳ミソでも、考えることは出来る。自分に何ができるか、自分にとって居心地のいい環境を作るにはどうすればいいか、考えることができる。そして僕は、その考えを実現できている。TVゲームや卓球をしているわけではないのだ。ゆっくりでいい。幸せは個人の能力なんかじゃ決まらない。人生、割となんとかなる。

ホラー

 

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ゾンビ映画はホラーに含まれるのか。


 ネットフリックスに加入した。ただいま一か月の無料期間中。今は料金の一番高いプランでお試し中だが、無料期間が終わる直前に真ん中のプランに変更する予定。4Kは今のところ必要ない。

 

 予てより観よう観ようと思っていた海外ドラマ「ウォーキングデッド」をsurfaceで視聴。しかもタリーズコーヒーで。お子様のお客様がいてもお構いなし。ただし、動画ウィンドウはスマホ並の小ささ。結局お子様に配慮。架空のゾンビより子供の親の目が怖い。家で観りゃいいのにね。

 

 当海外ドラマ、シーズン1の二話まで観た。やはりゾンビ映画はおもしろい。もとい、ゾンビドラマである。「ゾンビドラマ」ってジャンルがそもそも存在するのかわからない。少なくとも日本にゾンビドラマはない。テレビドラマはお茶の間のものだから、グロを売りとするゾンビは映せない。同じ理由で、今では地上波で露骨なエロも少ない。日本でゾンビドラマが流行ることはなさそう。

 

 というよりも、予算的に日本で「ウォーキングデッド」並みのものを作ることが無理だろう。実際、日本の映画シーンにおいてもゾンビモノは少ない。

 

 日本が得意とするのは、アクション要素のない「リング」呪怨」に代表される和製ホラーだ。欧米にはない、日本という多湿な環境が生み出した「湿っぽさ」が売りである。

 

 和製ホラーには、ゾンビモノのようなウイルス感染によるパンデミックという物理的アプローチよりも、霊的なものと相性がいいように感じられる。この「物理的か霊的か」という違い、つまり「わかるかわからないか」という部分に、欧米と日本の宗教観の違いがあるようにも思える(まぁ、欧米にも霊的な映画はたくさんあるけれど)。

 

 よし、ウォーキングデッドの続き観よーっと。

息子自慢の心理

 

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友だち自慢も一緒だよネ。


自分以外の人間を自慢する人がいる。例えば、自分の息子を自慢する人がいて「あいつは自慢の息子だよ」なんて言ったりする。これはどういった心境なのか、と考えたら、多くの場合が「怠慢」なのではないか、という結論になった。

 

 例えば、息子がテニスプレイヤー、父がコーチだとして、父の優れたコーチングやマネジメントの結果、息子が全国優勝を果たしたとなれば、「息子自慢」も悪くないと思う。

 

 ただ、多くの「息子自慢」は、「息子がこんな凄いことを成し遂げて、その父親は俺だ」と主張しているだけで、どのようにコーチング・マネジメントしているか、というプロセスの説明が抜け落ちている。つまり、「息子が凄いことを成し遂げた、じゃあ自慢しよう」という結果論的な自慢でしかない。息子の成果を褒め称えているようで、その実は「楽に自分を良く見せたい」という怠慢な心境なのである。

 

 これに似ているのが、口だけの上司が部下の成果をさも自分のもののように自慢して振舞う、というドラマでありがちなワンシーンだ。

 

 上司は、部下主導のプロジェクトに対して何もしない。助言さえない。「で、上司のあなたは何をしたの?」と質問されたとしても、答えることができない。でも、手っ取り早く自分をよく見せたいから自分にとっておあつらえ向きに用意された部下の成果を自慢する。「息子自慢」も、本質は変わらない。

 

 ここまで書いておいて言うのもなんだが、僕は実際に「息子自慢」をしている人を見たことがない。他人からこの手の話を聞く機会があって、この記事を書いた。僕が実際に聞くのは、話のながれから生じる、話のネタとしての「息子自慢っぽいもの」であり、ほっこりしていてむしろ好きだ。

 

髪の毛の特殊性

 

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ヘアメイクという自由。


 今日は髪の毛を切った。僕の担当の美容師曰く「おれさん、うちの店に来るの四か月ぶりだね」とのこと。つまり僕は、四か月もの間、髪を伸ばしっぱなしにしていたのだ。僕の感覚としては、二か月前に髪の毛を切ったつもりだった。なんか得したな、という気分を味わう反面、自分の記憶力の無さ、もしくは時間感覚の欠如に、いささかの呆れも感じている。

 

 「髪の毛って、人間の身体の中でも特殊な部位だと思うんだよね。自由なんだよ。それって、けっこう凄いことで。」

 

 こう言ったのは、先述の担当美容師だ。たしかに、他の身体の部位を変化させることは容易ではない。その最たる例が脂肪で、一度ついた脂肪は簡単には落ちない。脂肪は体型を変え、見た目の印象に大きな影響を与える。それだけに、自分の思い通りにならないという不自由さが、多大なストレスとなる。対して、髪の毛は切り離しが容易である。この自由さが、時に「髪を切る=気分転換」と語られる所以なのかもしれない。僕も今日髪の毛を切ったことで、気分がスッキリしている。

 

 「簡単に増える」という点では、脂肪も髪の毛も同じである。でも「すぐに切り離すことができて、且つデザインまで可能」という点が違う。それこそが、身体としての髪の毛の特殊性である。

 

 この条件には爪も当てはまる。しかし、髪の毛とは少し毛色が違う(ややこしい表現だ)。「ネイル」は爪のデザインと言えるが、爪の形を変えているわけではなく、どちらかというと顔のメイクに近い。服を着ることとも類似する。

 

 「髪の毛の特殊性」とは、髪の毛という身体「そのもの」として「容易に」形を変えることができる、ということだ。ヘアメイクにダイエットも美容整形もいらない。そういうことだ。

不思議な文化

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悩むだけ損なことで悩んで損する人が多い変な文化。


 死んだ後の「自分」について気にする人は、たくさんいる。例えば、「俺の葬式は盛大にやってくれ」だとか、「火葬の時は俺が大事にしていたものと一緒に焼いてくれ」だとか、「俺が死んだらHDDの中身は頼んだぞ」だとか。これは、僕がHDDの中身を誰に見られてもいい状態にしているから言っているのではない。

 

 自分が死んだら、「死んだ後の自分を気にする自分」は、もうどこにもいないのだ。気にするだけ杞憂だと思うのだが、多くの人は死後の自分を想像して、いちいち気にしてしまうのである。

 

 仏教には「輪廻転生」という思想がある。これは、生物が死んだ後、身体から離脱した魂が、他の生物に宿るというものだ。要は「生まれ変わり」である。輪廻転生とは、「前世の生き方で後世のありかたが決まるのだから、なるべく悪い行いはしないようにしましょう」というアイディアである。こういった死後のことを考える宗教観が、日本人にとって根強い。自分の死後を気にしてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。

 

 死後とは関係ないが、「土下座」も不思議な文化だ。行為とて見れば「正座の状態で頭を地面につけ、態勢を低くする」だけである。その様が「支配」「屈辱」の記号になっている。

 

 もし「土下座したら一万円をくれてやる」と言われたら、みなさんどうするだろうか。僕だったら躊躇なく土下座する。だって、土下座するだけで一万円が貰えるのだ。文字通り、痛くも痒くもないはずだ。土下座を要求した相手が「俺のほうが偉い、身分が上だ」と思えるのなら、そう思わせておけばいいし、僕はと言えばこれといった屈辱も感じずに一万円がもらえてしまうので、相手も僕も得をするのだから、こんなに微笑ましいこともない。簡単なアルバイトだ。

好き嫌いはしてもいい

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好き嫌いを「する」という言葉が、そもそもおかしい。


 僕はわりと、食べ物の好き嫌いがない。子供の頃は好き嫌いが激しかったのだが、社会人になってからそれほどでもなくなった。

 

 ただ、「キュウリ」と「からし」だけは今でも嫌いである。先人は何をとち狂ったのかこの二つを組み合わせて「キュウリのからし漬け」という食べ物を生み出した。これだけは本当に食べられない。周囲の人間は嬉々として食べているのだが、はたして本気で美味しいと思っているのだろうか。「キュウリのからし漬け」と「それを食べる日本人」というのは、日本という豊かさが生んだ「余裕」の実体化ではないだろうか。そう思えるほど美味しくない。唯一の好き嫌いである。

 

 今も昔も、親は子供に「好き嫌いなく食べなさい!」と教育している。この「好き嫌いなく」というのは、不思議な言葉である。「好き」とか「嫌い」というのは「感情」である。「これおいしい!好き!」とか「これは、そんなにおいしくないなぁ、嫌いだなぁ」と、自分の身体が勝手に反応して(感じて)しまうのは仕方のないことだ。

 

 そんな、止めようのない「好き嫌い」という感情を「するな」と強いることは無茶苦茶な話で、「人間を辞めろ」「機会になれ」と言っているようなものである。

 

 「好き嫌いなく食べなさい」というのは、「出されたものはすべて食べなさい」という意味だから、本来「好きか嫌いか」は問題じゃない。好きでも嫌いでも、黙って全部食えば文句はないはずだ。

 

 むしろ、「好き嫌いしてもいいよ」と教育したらいかがだろうか。食べ物に限らず「自分は何が好きで、何が嫌いか」を自覚することはとても大切なことだ。それが、「自分を知る」ということそのものであり、個人の尊厳に繋がるからだ。自分の好き嫌いくらい、自由に主張してもいいはずだ。