顕微新書 

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好き嫌いはしてもいい

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好き嫌いを「する」という言葉が、そもそもおかしい。


 僕はわりと、食べ物の好き嫌いがない。子供の頃は好き嫌いが激しかったのだが、社会人になってからそれほどでもなくなった。

 

 ただ、「キュウリ」と「からし」だけは今でも嫌いである。先人は何をとち狂ったのかこの二つを組み合わせて「キュウリのからし漬け」という食べ物を生み出した。これだけは本当に食べられない。周囲の人間は嬉々として食べているのだが、はたして本気で美味しいと思っているのだろうか。「キュウリのからし漬け」と「それを食べる日本人」というのは、日本という豊かさが生んだ「余裕」の実体化ではないだろうか。そう思えるほど美味しくない。唯一の好き嫌いである。

 

 今も昔も、親は子供に「好き嫌いなく食べなさい!」と教育している。この「好き嫌いなく」というのは、不思議な言葉である。「好き」とか「嫌い」というのは「感情」である。「これおいしい!好き!」とか「これは、そんなにおいしくないなぁ、嫌いだなぁ」と、自分の身体が勝手に反応して(感じて)しまうのは仕方のないことだ。

 

 そんな、止めようのない「好き嫌い」という感情を「するな」と強いることは無茶苦茶な話で、「人間を辞めろ」「機会になれ」と言っているようなものである。

 

 「好き嫌いなく食べなさい」というのは、「出されたものはすべて食べなさい」という意味だから、本来「好きか嫌いか」は問題じゃない。好きでも嫌いでも、黙って全部食えば文句はないはずだ。

 

 むしろ、「好き嫌いしてもいいよ」と教育したらいかがだろうか。食べ物に限らず「自分は何が好きで、何が嫌いか」を自覚することはとても大切なことだ。それが、「自分を知る」ということそのものであり、個人の尊厳に繋がるからだ。自分の好き嫌いくらい、自由に主張してもいいはずだ。