顕微新書 

書きたいことなんてないけど習慣だから毎日書いてます

僕の創った輝きじゃないから

 

f:id:itaidesuga:20190328170339j:plain

僕のせいじゃない。そういう考え方でもいいと思う。

 夜景を観るのが割と好きだ。僕の地元には「夜のアゲハチョウ」なんて言われるくらい綺麗だけど、その割には人があまり来ない、良く言えば「夜景の穴場スポット」ともいえる場所がある。単純に、その夜景を観るのが好きなのだ。だけれど、この夜景の正体とは、地域の人々の営みと、その中でも遅くまで働く社会人を照らすための灯りと、そのインフラを支えるために二十四時間体制でべったりな電力会社と、その会社を支える人々の苦労などからなっており、それを想うと、素直に喜んでいいものなのか、と疑問に思うこともあるが、深く考えずに夜景を眺めている。

 

 僕は、灯りをともしている当事者ではないから「綺麗だなぁ」と思えるけれど、オフィスで必死に働いているひとは、その灯りを早く消したいと望んでいるのである。「俺は夜景を創り出すために夜遅くまで働いているんじゃねぇ」。そう思って然るべきなのだ。

 

 「ボヘミアン・ラプソディ」という映画が大流行した。その劇中では、主人公・フレディ・マーキュリィの壮絶な人生が描かれていた。その彼の壮絶さが、映画を観る人々に感動を与えた。それもそのはず、映画を観ている人々は、フレディ・マーキュリィではないからだ。他人事だから、離れているから、感動することができる。それだけの余裕が、観衆にはあるのだ。一方のフレディ・マーキュリィ本人の人生に、もし余裕があったなら、この映画は制作されなかったことだろう。

 

 遠くにあるものは、都合のいいように見える。でも、それが悪いこととは思わない。自分の都合に合わせたほうが生きやすい。都合とはそういうものであり、今はそれが可能な時代だ。他人の苦しみで成り立つ輝きが在るのはしょうがない。ただ、無くてもいい。それだけの話だ。