顕微新書 

書きたいことなんてないけど習慣だから毎日書いてます

社会を生き抜くための「勉強」

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「勉強」も「学び」も必要

 (昨日の続き)

 

 この意味でいえば、昨今の学校教育のすべてが「勉強する」に値するかは、疑問である。例えば、「ダンス」が必修化されているけれど、「ダンス」そのものが、社会を生きる上で普遍的な意味があるとは思えない。なぜなら、「読む・書く」ことと同じくらいの重要性がない、と感じているからだ。踊れなくても難なく生きていけるのは、日本人全員が踊っていない事実をみればわかる。それに、日本で活躍している著名人の中にも、運動が苦手な人はたくさんいる。

 

 皮肉なことをいえば、学校の「勉強」も、全てが無駄とは言えない。人間には得意・不得意がある。その得意・不得意を、学校の「勉強」で、少なからず自覚することになるからだ。

 

 だから、「人間には得手・不得手がある」ということを、最低限覚えておくこをひっくるめて「勉強」というのかもしれない、という考え方もできる。

 

 大事なのは、「知識をつけること」ではなく「知ろうとすること」だ。知識は、最悪忘れてしまってもいい。ググれば出てくる。それよりも、その知識を絡めとっている「文脈」を知ることが大切だ。なぜそれができたのか、あるいは存在するのか、その文脈を理解することが、後に学ぶことの楽しさを与える。

 

 文脈を理解すると「あぁ、この流れって、あれに似ているな」という気づきが得られる。「ということは、あれも同じような文脈でできているのかな」と考えられるようになる。文脈を沢山覚えれば、加速度的に勘が良くなる。そうやって、自然に「発想」することもできるようになる。それが楽しい。そして、それはもはや「勉強」ではなく「学び」である。