社会を生き抜くための「勉強」
「あの人はもの知りで、なんでも知っている」と言われる人がいる。テストでは満点だし、クイズ番組を観ていてもズバズバ答えを言い当てる。そんな「もの知り」は時に、他者から尊敬のまなざしを向けられる。まるで「記憶力で人間の優秀さが決まる」とでも言うかのようだ。事実、学校におけるテストの点数が高いほど「あの人は頭がいい」と尊敬される。
しかし、せっかく記憶した知識も、今やググれば一発で答えが出る。人間の代わりに、機械が記憶(というか記録)してくれるから、人間はそこまで記憶しなくてもよくなった。
では、もう勉強はいらないのではないか。学校の授業もテストも、必死で頑張っている受験勉強も、意味がないのではないか。そう考えることができる。たぶん、今後も最低限の「勉強」は必要になるけど、大半はいらなくなる。
「勉強」という言葉には、なぜ「強」の文字が入っているのか。これは「強いる」という意味だ。つまり「勉強」とは「やりたくないけど、やることを強いて(強いられて)いる」ということだ。興味のない授業も、つらい受験勉強も、本当はやりたくないけど、やることを強いられている。だからしんどいのだ。
でも、若い(幼い)うちは、何を学べばいいのかわからない。だから、大人が「これだけは覚えておいたほうがいい」という内容を、教育プログラムにして、授業をする。とくに「読み・書き」ができないと日本で暮らすには不便だから、誰でもできるように勉強を強いる。
つまり、「勉強」とは「右も左もわからない子供に、社会で生きていけるだけの、最低限の知識を与えましょう」ということではないだろうか。
(たぶん、明日に続く)