顕微新書 

書きたいことなんてないけど習慣だから毎日書いてます

死に方について

 

f:id:itaidesuga:20190413194347j:plain

何度も死にかけるようだったら自殺かなぁ、という話。

 死について語ろうなどというのはおこがましいことだ。これまでさんざん、いろんな人が死について考え、研究し、語り合ってきた。それでも死が何か、という明確な答えは出ていない。だから僕は、「死に方」について語ってみる。

 

 死ぬのが怖いか、と聞かれたら、「死ぬこと」それ自体は怖くないと答える。死んでしまえば、怖がる自分もいなくなる。人間が不老不死になれる未来がくるかもしれないけど、僕が生きている間にはたぶん実現しない。だから、いつかくる死を気にしていても仕方がない。

 

 それよりも、生きている人間にとって、よっぽど問題なのは「死に方」だ。多くの人は「死」ではなく「死に方」を気にしているはずだ。

 

 僕は、死を意識しないうちに死ねたらラッキーだと思う。痛みを感じる前に、脳天を撃ち抜かれるとかで、いつのまにか死ねたらいい。もちろん死にたいわけではなくて、死に方はそうでありたい、ということ。つまり、苦しみたくない。飢餓だったり、病気になったりして、死を意識したまま死にたくない。苦しいのは嫌だ。

 

 重い病気にかかったことのある人が口をそろえて語るのは「異常なほどにリアルな死の感覚」だそうだ。健康な人は、死を忘れがちだ。人は必ず死ぬ、という事実を都合よく忘れる。不安を消すためだ。でも病人は、その不安から逃れられない。これも「死」ではなく「死に方」だ。

 

 今僕は海外ドラマを観ている。当たり前のように、目の前で人が死んでいくドラマだ。文明は崩壊し、化物がうろつく世界を、人は必至に生きている。当たり前だった生活がどれほどユートピアだったか。それほどの絶望を生きている。避けられない死の感覚。この世界で生きる人間は、まるで病人だ。僕だったら、自殺を選ぶ。