顕微新書 

書きたいことなんてないけど習慣だから毎日書いてます

一体感

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歪んだ一体感。

 本日は、今年が始まって百二十二日目。一年のうち三分の一を経過する日になる。新元号ばかりに目が行きがちだが、もうこれだけ日がたっているのだ。早いものである。つまり、一年間文章を書き続けると僕が宣言してから三分の一が経過したことを意味する。

 

 四月一日に令和が発表されて今まで、日本が一つになったような感覚だ、と語っている人がいたが、日本はいつから複数になったのだろうか、と疑問である。むろん、そうではなく、国民全体が一体感を持ったような感覚になった、ということだろうが、どうせまたすぐばらばらになる。というか、一体になったところでなんだというのだろうか。みんなが一つのものに注目している間、他のことは疎かになっていたりするのだ。集中することがいいことばかりではない。でも、元号改正の「お祭り感」は嫌いではない。

 

 日本全体の一体感というのは薄いと思う。確かに、東日本大震災や福島事故が起こった時は、みんながショックを受けていて、その上自粛ムードが追い風となり、ある意味、国民一体感に拍車がかかっていた。でもそれは当たり前のことで、大きな事物にはみんなが注目するものである。ジブリ映画が地上波で放映されてツイッターが持ち切りになるのも、震災や元号改正と変わらない。

 

 
ツイッターといえば、SNSの普及により、書籍を介さない個人による啓発的発言が目立つようになった。それらの言葉は一つ一つ力があり、みんながその斬新性と許容性と包容性に心を惹かれ、いいねやRTをする。しかしその一つ一つは、必ずしも同じ文脈で語られてはいない。むしろ真逆だったりする。それらすべてを「刺さる言葉」として同じカテゴリとして捉えるあまり、振り回されている人間が多い。歪んだ一体感である。