顕微新書 

書きたいことなんてないけど習慣だから毎日書いてます

憂鬱な季節のお節介

 

 

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大事なのは、自覚すること、なのかなぁ

 憂鬱な四月が迫っている。とはいっても、サラリーマンであれば、四月を迎えても生活の変化はほとんどないのではなかろうか。精々、新入社員が入ってくる程度だろう。進学のように、環境がガラッと変わるわけでもなければ、クラス替えのように、部署異動があるわけでもない(そんな頻繁にあってたまるか)。

 

 

 しかし、ある種の焦りは感じる。それは、変わらないことへの焦りなのかもしれない。四月という季節は、ピカピカのランドセルを背負った小学生や慣れないスーツ姿の若者のような「変化」を映す。顕在したそれらが「お前はどうだ?」と訴えかけてくるかのようでもある。または、意識に隠れた「余裕のなさ」を、春の熱に炙りだされる感覚でもある。四月とはそういう季節である。

 

 さっき「四月の憂鬱もサラリーマンにはあまり関係がない」みたいなことを書いたばかりだけど、やっぱりちょっと憂鬱だ。

 

 変化しないことはとても楽なことだ。「変わらなくてもいい」と思う人もいるだろう。否定はしない。でもきっと、域を出ない暮らしが待っている。気がついたら、まわりは「変化しつづけた人」だらけになっている。その時になってやっと焦りはじめるかもしれない。

 

 焦りはじめてから動きだしても遅い。しばらく動かさなかった脳も躰も、素直に言うことを聞いてはくれないだろう。今まで動くことをサボってきた人にとって、それは絶望的なことだ。その絶望から逃げ、行きつく先が「老害」である。

 

 四月は憂鬱だ。そんな憂鬱な季節のお節介に、付き合ってみるのも悪くない。