顕微新書 

書きたいことなんてないけど習慣だから毎日書いてます

安全に絶対はない

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加害者が不在だから被害者を攻撃する。誰かを責めずにはいられない。

 絶対なる安全などない。僕たちが今を生きている中で、自身にいきなり死が訪れるのは当たり前なことだ。というか、「自分が急に死ぬことは絶対にない」と思っている人は、ちょっと楽観的すぎるのでは。いまこの瞬間も、住んでいる家で火事が起ったり、家から出れば通り魔に刺されたり、といったことが絶対に起こらないとは言い切れない。不慮の事故・事件に巻き込まれた人は、当たり前だが、その事故・事件を事前に察知できないから巻き込まれる。不安全な事象というのは、思いがけず自分の身に降りかかるものである。

 

 大津市で起きた、例の交通事故。保育園側の会見での、記者たちの質疑が物議を醸している(というか、この手の筋違いで本質からズレた質疑というのがいつになっても消えないのが日本ですよね)。ネットでは散々「この会見は必要だったのか?」と疑問が挙がっているが、同意である。何のための会見だったのか。言ってみれば、普通の(と言ったらイメージが悪いが)交通事故なのである。日本では、交通事故が起こるたびに会見をひらくのだろうか。むろん、幼稚園側に非がないということは、火を見るよりも明らか。たとえ、先生より道路側に園児が立っていたとしても、歩道の道路側に近い場所に立っていたとしても、そしてその状況で園児が轢かれたとしても、事故を起こした運転者側に非があるはず。にもかかわらず、幼稚園側を責めるような質問を平気でするのはおかしな話だ。

 

 このような質問は、記者側が「安全神話」を信じてしまっているから発生するのかもしれない。ただ、ひとつ断言できることは、会見は必要なかった、ということ。あの会見の場での質問なんて、ほぼ無いはずだ。無い質問を無理に出そうとするから、馬鹿な質問が出てくるのである。