顕微新書 

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令和を感じない

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そもそも、「令和を感じる」って何?

 『この「令和どら焼き」を食べながら、令和を感じて頂きたいですね』

 

 テレビの取材に対してこう答えたのは、とある和菓子屋の店主だった。お店のどら焼きに「令和」型の焼き印を押して売り出す。いわゆる「令和商戦」だ。

 

 高速道路でドライブをしていても、大きめのPA・SAには、必ず「令和グッズ」が置かれていた。確かに、ここまでされれば令和を感じずにはいられない。しかし裏を返せば、国民は「そうでもされないと令和を感じられない」のである。なぜなら、元号改正は「国民の文化」ではないから。

 

 例えば、令和グッズや、令和に関するニュースを目にするたびに、「そうだった、今は令和だった」「平成は終わったのだった」と思い出す。どれだけ「令和だ令和だ」と騒いでいても、結局はすぐに忘れる。「令和」の中で生活をしている、という実感がまったく湧かない。

 

 「令和、あけましておめでとうございます」という言葉を見かける。確かに、平成から令和へ移る深夜の時間帯の、渋谷スクランブル交差点、大阪道頓堀、他各地の騒ぎようは、まさに年始年始ムードのそれだった。その瞬間だけは、年末年始と同じ空気が流れていた。ただし、本当にその瞬間だけだった。

 

 元号改正には、形のしっかりした「ムード」がない。なぜなら、年越しそばやおせち、お年玉や初詣といった、行事に寄り沿ったシンボリックな「文化」が存在しないからだ。僕が「そうでもしないと令和を感じられない」と感じるのは、そのためだ。「剣璽等承継の儀」等の儀式も、国民にとってポピュラとは言い難いし、元号の改正自体がそう頻繁にあるものでもない。元号改正は、どうしたって「国民の文化」にはなり得ないのである。