一体感
本日は、今年が始まって百二十二日目。一年のうち三分の一を経過する日になる。新元号ばかりに目が行きがちだが、もうこれだけ日がたっているのだ。早いものである。つまり、一年間文章を書き続けると僕が宣言してから三分の一が経過したことを意味する。
四月一日に令和が発表されて今まで、日本が一つになったような感覚だ、と語っている人がいたが、日本はいつから複数になったのだろうか、と疑問である。むろん、そうではなく、国民全体が一体感を持ったような感覚になった、ということだろうが、どうせまたすぐばらばらになる。というか、一体になったところでなんだというのだろうか。みんなが一つのものに注目している間、他のことは疎かになっていたりするのだ。集中することがいいことばかりではない。でも、元号改正の「お祭り感」は嫌いではない。
日本全体の一体感というのは薄いと思う。確かに、東日本大震災や福島事故が起こった時は、みんながショックを受けていて、その上自粛ムードが追い風となり、ある意味、国民一体感に拍車がかかっていた。でもそれは当たり前のことで、大きな事物にはみんなが注目するものである。ジブリ映画が地上波で放映されてツイッターが持ち切りになるのも、震災や元号改正と変わらない。
ツイッターといえば、SNSの普及により、書籍を介さない個人による啓発的発言が目立つようになった。それらの言葉は一つ一つ力があり、みんながその斬新性と許容性と包容性に心を惹かれ、いいねやRTをする。しかしその一つ一つは、必ずしも同じ文脈で語られてはいない。むしろ真逆だったりする。それらすべてを「刺さる言葉」として同じカテゴリとして捉えるあまり、振り回されている人間が多い。歪んだ一体感である。
早く終わらせたい
今僕は二〇一九年四月二七日(相変わらず漢数字というのは読みづらい)の午前一時にこれを書いている。つまり、スペシャルでラグジュアリィな十連休の初日の深夜だ。気分はウハウハ、と言いたいところであるが、実はそうでもない。
ぼくは今日の昼から嫁と、世間のご多分に漏れず、六泊七日の旅行に出る。その間、観光に専念したいため、七日分の顕微新書を一生懸命(は、いいすぎか、こんなものに一生など懸けてられるか)書き溜めているのである。これを、はてなブログの方にも投稿する。はてなブログには予約投稿機能があるため、七日分の投稿をセッティングして、晴れやかな気持ちで旅行に出るつもり。ちなみにこの記事を含めてあと二記事。はやく終わらせてしまいたいという一心でキーボードを打っている。改めて、別に書くことは好きじゃないな、ということを実感している。
そもそも、毎日文章を書いてアップロードすることを、僕は「習慣」としている。今、ここで書き溜めて、七日間文章を書かずに生活することは、果たして習慣なのか? という疑問にぶつかるが、しかし、そんな細かいことよりも旅行の方が大事なのである。旅行という貴重な時間を、したくもないことで割いてなどいられない。例えば、歯は旅行先でも毎日磨かなければいけないけれど、文章なんて書かなくても健康を害することはない。そこまで文章に深い拘りはない。
あぁ、はやくウハウハしたい。ウハウハしたまま寝たい。なんで数か月前の僕はこんな面倒なことをやると宣言したのか。だれも見ていないのに。そうか、だれも見ていないじゃないか。じゃあ辞めてしまおう。いや、でも決めたことだしなぁ。辞めるのは良くない気がするよなぁ。バカまじめ、じゃなくて、無駄まじめ・・・。
兄について
僕は昔から何事にも興味を示さず生きてきた。なにを始めるにも、なんかめんどくさい。小さいころからだし、今もそうだ。
そんな僕とは対照的に、兄貴は何でも自分一人で始める。インターネットやらネトゲーやらギャルゲー(シスタープリンセスにどっぷりだった)やらを、小学生のうちから始めていた。映画も好きで、ネットから情報をあさり、B級映画なんかを好んで観ていた。僕はそんな兄貴のおこぼれにあずかっていたに過ぎない。兄貴が借りてきた映画を一緒に観て、兄貴が買ってきたゲームを兄貴が飽きたら僕がやり、兄貴のマネをして知らない人とスカイプをしたりしていた。
兄貴は変人だ。顔は老けているし食べ物の好物も羊羹とか煎餅とかで老人くさい。変な趣味ばかり見つけては手を出して飽きてはパッと手放す。お菓子やジュースは隙あらば一瞬で空っぽにしてしまう。無精ひげで見た目おっさんなのに、クラスの女子を自分の部屋に連れてきたりしていた。無駄に正義感が強く、高校時代は不良から目を付けられていた。あと、どんな時でも寝つきが異様に早い。のび太君と張るくらい早い。
でも僕は、そんな変人でサブカル野郎な兄貴に憧れを抱いていたのだと思う。兄貴は長男で僕は次男、男二人兄弟(姉もいるけど十二も歳が離れているのでどっちかというと親戚っぽい、ここでは置いておく)。もし仮に、兄貴がいなくて僕が長男だったら、いったい誰から遊び方を教わればよかったのか。いや違う、兄貴は遊び方なんて誰からも教わっていない。自分でおもしろいことを探して、自分で勝手に遊んでいたのだ。
それは今も変わらない。結婚もせず、彼女もつくらず、安月給で悠々自適に遊んでいる。そんな兄貴を、僕は今もどこかで憧れている。
日本じゃあり得ない
小学生の頃、母の車の中ではいつも二つの洋楽アーティストの曲が流れていた。一枚のCDに、前半と後半で違うアーティストが歌っている。その頃は「きっとお母さんのお気に入りミックスなんだろうな」くらいにしか思っていなかった。
社会人になって故郷を離れ、しばらくのことだった。テレビで、なんだか懐かしい曲が流れていた。むろん、それは小学生の時にあの社内で流れていたうちの一曲だった。しかし、曲名もアーティスト名もわからない。
「気になる」
そんな想いがじわじわと湧き上がる。すぐに母に連絡をとった。
「お母さんが昔、車で流してた曲って、どのアーティストの曲?」
「あぁ、あれはドリームズカムトゥルーだね」
「そんなはずはない、流れていたのは洋楽だったよ」
「あぁ、じゃあビートルズだわ」
「ビートルズだったらこんな質問はしていない、きっと、もっとマイナーな奴だよ」
「はいはい、あれだ、ドゥービーブラザーズ」
「ん、なんかそれっぽいな、ありがとう」
そうして僕はドゥービーブラザーズを調べた。そして無事、テレビで流れた曲を突きとめることができた。それと同時に、実は母の車で流れていた二つのアーティストは、実は異なる二つのアーティストなどではなく、「ドゥービーブラザーズ」という一つのバンドだったということが判明したのだ。
僕が勘違いしていた理由は、とある事情でメインボーカルが変更になり、ジャンルもウェスタンロックから都会チックなAORに路線変更されていたからだった。気づかねーって、普通・・・。
人の話は最後まで聴け!
人の話を最後まで聴かない人間が多すぎる気がする。こちらが伝えたい趣旨を、伝えられないまま割り込んできて、割り込んだその内容にもっていかれて、趣旨がずれていく。ひとまず、最後まで聴いてほしいものである。
最近、こういった「最後まで人の話を聴けない人」と接することが多く、少々イライラしている。イライラし過ぎて、「ちゃんと最後まで話聴いてくださいよ!」と半ギレしてしまって、ただいま反省中である。相手もドン引きしていた(いやでも、お前が悪いっ!)。
人の話を聴けない人に多い特徴は、話かけられたとき「自分が何らかの理由で責められるのではないだろうか」と不安になって身構える人。いや、こっちは仕事で話かけているだけなので別に責めたり怒ったりするようなこともないのに、ろくに人の話も聴かずに自意識過剰で先行して自己防衛に入る。結局、必要のない弁解でこっちの趣旨・本質から大外れした話に終始する。逆にこっちがその弁解を一応最後まで聴きはするのだが、その話もまぁ大抵長々としている。その話に対する「いや、そういうことじゃなくてね」という説明をしている最中にも、相手は勝手な解釈で相手の話を遮り・・・といったイタチごっこになるケースがほとんどである。
自分で勝手な解釈をして、物事や事実をありのまま受け入れられない人というのは、仕事上かなり厄介な存在だ。説明にも時間がかかるし、説明したところでこちらの趣旨通り理解されたかも怪しい。まるで小学生を相手にしているみたいだ。
きっと、今まで散々責められてきたのだろう。怖い上司のパワハラの攻撃から逃れるために、早めにシールドを張るようになった。気持ちはわかる。でも、人の話は最後まで聴けよっ!
ジュラシックパーク
二歳上の兄貴(長男)は、小さいころから映画が好きだった。長時間ジーッと何かを見ているのが苦手だった僕は、兄貴がレンタルしてきた洋画を断片的に眺めるだけで、例えば「マトリックスで印象的だったシーンは?」と聞かれたら、「なんか道着を着た外人二人が闘っているところ」と答えはできるものの、なぜその外人二人が闘っていたのかは謎だった。とにかく、映画は苦手だったのだ。
それが大人になってから、「なんであの外人二人は闘っていたのだ・・・?」と急に気になり始めた。それをかわきりに、今まで断片的な記憶にとどまっていた映画のワンシーンの意味が知りたくなって、子供のころの時間を取り戻すかのように映画を観ているのである。
その第一弾が「ジュラシックパーク」であった(マトリックスじゃないんかーい)。
僕の記憶では「人間がプテラノドンに連れていかれる」くらいの認識しかなかった(しかもそれは恐らくジュラシックパークⅢのシーンである、今回視聴したのは初代ジュラシックパーク)。
「ジュラシックパーク」はザ・スピルバーグなザ・エンタメ映画で、これは今の子供が観てもおもしろいだろうな、と思えるほど色褪せていなかった(子供の頃の僕はほとんど興味を示さなかったわけだけれど)。
皮肉にもティラノサウルスに助けられる、というラストがナイスすぎる。ティラノサウルスといえば恐竜の中では王道。最初から最後までジュラシックパークをジュラシックパークたらしめていたのはティラノサウルスであった。
欲を言えば「恐竜が人間界を生きることによってどう変化するか」という、数学者が言っていたカオス理論云々について掘り下げてほしい。
十連休
今日はある意味仕事納めみたいなものだった。十連休を前に、職場全体がまるで年末みたいにそわそわした雰囲気になっていた。というか、よく考えてみれば年末年始だっていいとこ六連休くらいである。それに比べたら、休暇を取る必要のない、ナチュラルな十連休というのはちょっと異様でもある。いまだかつてないのではないだろうか。少なくとも僕の記憶にはない。
連休前の週ともなると、みんな連休に目が行く。もうそれしか見えていないし、口では「連休明けに備えてしっかり仕事しろよ」なんて格好のいいことを言っているが、三十分後には連休はどこに行ってなにをするかみたいな話をしているのである。十連休の魔力は恐ろしい。
そもそも、この十連休とはご存知の通り、天皇の即位が絡んで生まれたスペシャルな連休である。それにも関わらず、天皇の話や平成から令和に元号が変わるといった話は思い出したらする程度で、本題はやはり十連休。実にわかりやすい。
かくいう僕も、僕も天皇や令和より、よっぽど十連休のほうが感心が強い。なぜなら、そっちのほうが自分の生活により絡んでくる事柄だからだ。僕だってサラリーマンである。休めるのならたくさん休みたい。
十連休なんて持て余す、という人もいるだろう。確かに、どこに出かけても混んでいて、できることなんて限られているかもしれない。それでも、何かしら行動してみたらいい。ボケーッとしているよりは健康的である。一人で家にこもってできること、ゲームでもいいし、映画鑑賞でもいい。とりあえず、なんでもいいから新しいことを始めてみる。仕事で忙しいと、たとえ土日でも、多少のリスクすらなかなか取れないものである。せっかくなので、大いに楽しむべきである。
開いた口が塞がらない
相変わらず、ドラマ「ウォーキングデッド」を観ている。毎日こつこつと視聴し、結構なところまで観進めることができたのだけれど、ここにきて、シーズン1からの主要キャラが死んでしまったのだ。しかも、あっけなく。
本作の中でも特に人気のあるキャラクターだ。主人公との間に強い絆がある。そんな重要なキャラが、えぇ、こんな死に方でいいの? というぐらい、いとも容易く死んでしまった。
誇張ではなく、開いた口が塞がらなかった。自分の口が、ぽかーんと開いていることに、一分くらいしてふと気がついた。本作で一番驚いたシーンかもしれない。本当に、えぇ、今? というくらい急な死だった。
「ウォーキングデッド」の世界に平穏はない。誰にでも等しく、明日死ぬかもしれない、いやそれどころか、今この瞬間、突然に死は訪れるかもしれない、という意識を持たざるを得ない。
しかしどうだろう。今僕は、平穏な日本に生きているけれど、明日死ぬ可能性は充分にある。連休を前にしたこの時期に、交通事故に遭うかもしれない。もしくは通り魔に刺されるかもしれない。知らぬ間に身体のどこかがむしばまれていて、病死するかもしれない。こんな当たり前のことを、大量のゾンビが徘徊する世界を眺めながら思い出すなんて、どれだけ楽観的なのか。人間は、「人間は死ぬ」ということを、けっこう忘れがちだ。
でも、死ぬことばかりを気にしていてもしょうがない。ここは日本だ。来る死には、それを受け入れる他ない。ただ、死に急ぐ選択だけはしない。それだけだ。
ここまで書いておいてアレだが、件のキャラクター、実は死んでないらしいのだ。「いやこれ絶対死んだじゃん!」という演出だったので、つい・・・。
執着のない人生を
何かやらなければいけないことがある。でもそれをやるのは面倒だ。だったら、いっそやらなければいいのではないか?
こういった考え方は、最近広まりつつある。その究極系がミニマリスト。無駄なことはしない。いらないものは携帯しない。車も持たない。結婚もしない。自分の身の周りから無駄な事物を排除する。そんな生き方だ。最近では、自宅(つまり住所)すら持たない人もいる。ノマドワークでお金を稼ぎ、友だちの家や格安の宿を転々とする。
むろんこういう生き方は、普通の人にはとても受け入れられるものではない。今、生活しているうえで当たり前にあるほとんどのものを捨てなければならないからだ。そんな覚悟は、僕にもない。ただ、ミニマリストに多少の憧れを感じることも事実である。執着のないことはいいことである。拘らない、諦める、ということができる人間は、ストレスフリーに生きていける。そのほうが幸せである。
だからなるべく、自分の環境、あるいは自分自身を、ストレスフリーに近づけていく。
例えば、僕は子供を作らないと決めている。少子化の時代に何を馬鹿なことを、と思うかもしれない。でも、僕の自由だ。子供を作らないことが犯罪にはならない。子供を育てることの幸せ、というのはあるかもしれないが、今この時間を子育てに割こうとは到底思えない。そんな精神状態じゃない。だから子供は作らない。
暗めな話になってしまったので、平和な例を。僕は、家から職場に毎日弁当を持参している。ただ、弁当を温めるにも、電子レンジが一台しかないので行列ができる。温めるのがアホらしいので、冷めたままの弁当を食べ続けたら、むしろ冷めたままの方が好きになった。そういう諦め方もある。
息を売る
時代の転換期には空気が売れるらしい。
いったい何の話か。
先日のテレビニュースでは、去る平成と来る令和の特集を組んでいた。というか、もう連日、その話題で持ちきりである。疲れるくらいだ。盛り上がるのはけっこうなことだけれど、たかが元号が改正になるというだけの話だ。まぁでも、平和な証拠である。
その中でも、ひときわ目を引いた(ように感じる)ニュースは、「平成の空気を缶詰にして販売する」というものだった。「平成の空気」といっても、「空気を読む」的な状況把握的な空気のことをいっているのではない。窒素・酸素・二酸化炭素からなっている、あの空気である。それを缶詰にして売る。ちょっと何を言っているかわからない。
「それはもう、中身のない缶詰では?」
そんなごもっともな発言もタブーとしてはばかられそうな、そんな空気(人々の意識)が、令和を前にして流れ始めている。さっきも言った通り、ただ元号が改正になるだけなのだ。国が一気に大きく動くことはない。それでも、いやだからこそ、もしこの缶詰が売れる(売れている)のであれば、それはもう日本という国はとてつもなく、呆れるほど平和な国だということだ。空気が売れることが平和の象徴、というのは、なんだか間抜けな気もするけれど。
しかし、いい商売だと思う。いっそ、人気アーティストやアイドルの吐く息なんかも缶詰にしてみてはどうか。例えば、握手会やサイン会ならぬ、缶詰会。信頼性を担保するために、ファンの目の前で缶に息を詰める。なんならその缶にサインでもすればいい。それを直接手渡す。あとはファンにゆだねる。吸うもよし、保管するもよし。良い値段で売れるはずだ。